2月7日(火)
こないだから、新刊やイベントの告知のため、TwitterのアプリをiPhoneに再インストールし、PCでもtwitterを見る時間が増えたが、そうするとやはりたまたま目に止まった投稿をきっかけに、むくむくと過去の出来事やその時の感情が再来して、あれこれ考えてしまう。そうした感情の連鎖は起こるべくして起きているのだなと思うし、久々にこれを体験すると、こんなにしんどかったかな、とも思う。目指すものがなんであれ、やはりこうした感情的に人を動かすことには懐疑的にならざるをえない。
昨日はそれでちょっとInDesignを開いて、数時間、やろうと思いながらやっていなかったとあるプロトタイプを作ってみた。集中すれば、そうしたざわついた気持ちというのも一度はどこかに消えてしまうものなのだ。集中できるものを見つけること。
それとは特に関係ないが、くだらないことばかり書いたり、話したりしていると、自分でもバカなのではないかと不安になることがある。何か読めば賢くなるようなことをやった方がいいのではないか、といった考えが頭をよぎる。そういう時に思い出すのが、阿川佐和子『聞く力』に出てくる遠藤周作の言葉だ。
「今日は一人でいろいろしゃべり散らしたけれども、一見、躁病的軽薄に見えるこの話のなかに、実は奥深い意味と象徴を見つけることのできる読者と、それができない読者とがいるでしょう」(p. 251)
2月4日(土)
今日は休み。メールの返事をしたり、本を読んだり。天気がいいので午後は外に出よう。
昨日までの半月ほどは雑誌『代わりに読む人1 創刊号』の原稿のやりとりに忙殺されていた。いや、しかし、お陰様で、いい原稿が集まっている。創刊号も(って変な言い方ですが)間違いなく面白い一冊になるという確信がある。一度、峠を越えた感がある。まだ、刊行までにはいくつも大きな山があるけれど。今年は刊行のタイミングに合わせていろいろやりたい。短距離走ではなく、長距離走的なやり方が必要。もともと僕は長距離走者なのです。
昨日はひさしぶりに下北沢の本屋B&BやBREWBOOKSを訪ねることができた。↓に書いたトークイベントと関連して、フェアを開催してもらっていて、私も3冊選書しました。「創刊準備号」から今年「創刊号」を作っているので、ここから学ぼうということでここ最近ガツンと来たZINE/リトルプレスの創刊号を選びました。そもそも『巣』以外のZINE/リトルプレスも製作者とは面識がなく、どんな方が作られているのかなというところから非常に興味がある。
2/16に下北沢の本屋B&Bで『ふたりのアフタースクール ZINEを作って届けて、楽しく巻き込む』(双子のライオン堂)刊行記念のトークイベントがあり、共著の小説家・太田靖久さん、『35歳からの反抗期入門』を出された碇雪恵さん、出版元の竹田信弥さんとZINEを作って届ける活動の話をすることになっているのだが、さて何か聞いてくださるかたのためになることを話せるだろうかとずっと考えている。何か書いたり伝えたりしたいことがありZINEを作るということだけで言えば、別に誰かに教わったり、勉強したりしなくても、ZINEを作ること自体は出来てしまうものだし、一方で何も書いたり伝えたりしようとも思わない人にはZINEを作って届ける話は、興味を喚起しないかもしれない。むしろ、このトークを聴きに来てくださる方は、ZINEを作ってはみたけれど…、という人なのではないか。ZINEを作ってみたけれど、周囲の人だけでなくもう少し広い人に、あるいは直接繋がってはいないが同じようなことに興味を持っている人に知ってもらい、手に取ってもらうにはどうすればいいか、あるいはそうした活動をどうやったら継続していけるか、面白い展開を作り出せるか、と言った話になりそうだ。と考えていて、ふと思ったのは活動が広がっていく源泉としては、僕の場合、信頼できる人と出会い、その人たちに役割を委ねていったことが一番大きいと思う。本を売るということについては本屋さん、製作で言うと、デザイン、組版、校正をやってくれる専門家、もちろん書いてくれる著者やアーティストもそうです。活動を広げたいからそうしたというよりも(むろん、そういうところが多分にあったが)、そうやって出会い信頼できる人たちにうまい具合に委ねられた分が真に広がった活動の部分だと思う(つまり、順序が逆)。
外国への巨額の資金援助のニュースが話題になるたびに思うのは、しかしどうしてそういうことになっているのか調べなくちゃいけないなということだ。おそらく、フィリピンへのそれもODA(政府開発援助)の一環であるにちがいなく、ではそれがどのように実施されているのか、どういうプロセスでそれが決定されているのかとか、結果的に国内の人材育成があったり、あるいは企業への還流といったことがあるのかといったことを問題を掘り下げてみることなく、脊髄反射していたのでは、どうにもならないなと感じている。それでまたマレーシア駐在時代に見聞きしたことを思い出したりもするが、今日はもうたいがい書き過ぎているので、また別の機会に書くことにする。